年齢で見る歴史の人物~鎌倉編~源頼家
源頼家(みなもとのよりいえ)
1182年 源頼朝、北条政子の嫡男として生まれる
比企能員の屋敷で生まれる。幼名は万寿。
父・頼朝はこの時36歳。待望の後継者男子としてめっちゃ祝われての誕生。
乳母父とか乳母は比企家で固められた。
1193年 頼家12歳 富士の巻狩りで初めて鹿を射る
父・頼朝が「頼家、鹿はじめて射ったで!ヒャッホイ☆」と母・政子に知らせの使いを送る。
政子「武士の長男なんやから出来てあたりまえやん」と塩対応した。『吾妻鏡』
※実際には政子はこのような発言はしていないという説もある。
筆者は勝手に「へぇ~。良かったね。」ぐらいの薄い反応だったのではないかと予想しています。
1184年に長女・大姫(当時7歳)が婚約者を頼朝に殺されてふさぎ込んでしまい、約10年の年です。
大姫は16歳。結婚をそろそろ考えないといけない年なので、政子はそっちに気が行っていたのではないかなと予想しました。
1195年 頼家16歳 十五位上右近衛権少将に叙任
武芸の達人として成長。
1198年には長子・一幡が誕生(頼家17歳)
1199年 頼家18歳 2代将軍へ
父・頼朝の急死(享年53歳)により頼家が家督を相続。
第2代鎌倉殿になる。
家督を相続して3カ月後、頼家の独断を阻止するため、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれた。
十三人の内訳
安達盛長(頼朝の乳母の娘婿)、大江広元(親能の弟・公家出身)
中原親能(広元の兄・公家出身)、
目上のたんこぶ的なラインナップに見えます。
もちろん頼家は大反発をして、有力御家人たちとの間に亀裂が生じていきます。
※筆者の勝手な想像の当時の頼家と御家人たちの心境
■頼家
「よっしゃ俺の天下や!鎌倉殿としてブイブイ言わすぜ!えっ?このじじぃ達マジ邪魔やねんけど?なんなん?13人普通に多いやん。梶原だけでよくね?俺、鎌倉殿やで?」
■北条氏など比企家以外の御家人たち
「えっ?まだ武家政権確立してないのに何で勝手に動くん?公家にまた勢力持ってかれるで?えっ?平家から命がけでお前の親父守ったったから今の地位があるのわかってるん?まじクソガキやん?」
こんな感じじゃなかったのかなと。あくまで勝手な予想です。
1200年 頼家19歳 政治的後見人梶原景時一族の滅亡
十三人の合議制が制定された半年後、父・頼朝の代から側近として用いられ、権力をふるってきた梶原景時が御家人らによって糾弾され追放。
1200年一月、景時は鎌倉復帰がかなわず一族とともに今日に上る途中、在地の御家人たちからの襲撃を受けて一族もろとも滅亡。
頼家、政治的後見人を失う痛恨の出来事。
1203年 頼家22歳 将軍追放
頼家は7月半ばに急病にかかり、8月末に危篤におちいる。
まだ頼家が生きているにも関わらず、「頼家が病死し、弟の千幡(実朝)が跡を継いだ」と京都に報告がなされた。
9月には比企一族が嫡男・一幡とともに北条時政により殺される。
回復した頼家は激怒するも、周りに味方はなく鎌倉殿の地位を追われ、修禅寺に出家させられる。
弟・実朝が3代将軍に。(当時13歳)
完全に毒を盛られていると思うのは筆者だけではないはず!
政治的後見人・梶原景時の追放理由は「弟・実朝を将軍に推す勢力がいますよ!」とウソの情報を流したとされています。
でも実際そうなって、その後は北条時政が実権を握っているので、北条氏の関与が勘繰られますね。
1204年 頼家23歳 伊豆修禅寺にて誅殺
北条氏の手兵により殺害される。
頼家は強いから、入浴中の丸腰の時を狙われ、首にひもをまいて、金●をつぶして動きを抑えて首を切ったとかなんとかという話もあります。
壮絶な殺され方ですね(ノД`)・゜・。