年齢で見る歴史の人物~鎌倉編~②北条政子
北条政子 (源政子)
夫、息子たちの死後、幕政の実権を握り、尼将軍と呼ばれた。
1157年 北条政子 誕生
1177年頃 政子20歳前後 頼朝と結婚
父・時政は平治の乱で流罪となった源頼朝の監視役であったが、京都に出張に行っているうちに政子と頼朝が恋仲になっています。
父・時政は二人の結婚にはじめは大反対だったが、最終的には認めた。1178年、第一子となる長女・大姫を出産。
ちなみに「大姫」は長女という意味の通称。
本当に関係ないですが『項羽と劉邦』で有名な劉邦も「劉さんちのあんちゃん」ぐらいの意味だとか。面白いですね。
1180年 政子23歳 以仁王の令旨が頼朝に届く
頼朝は動かなかったが、計画がバレて以仁王が敗死したことにより、令旨を受け取っていた頼朝にも危険が迫り挙兵。
石橋山の戦いで頼朝が惨敗。長兄・北条宗時が討死。(弟という説もあり)
頼朝は、北条時政、義時とともに安房国(現在の千葉県あたり)で再挙、東国の武士たちをまとめ上げ、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。
頼朝、政子は鎌倉に移り住み、頼朝は「鎌倉殿」、政子は「御台所」と呼ばれる。
頼朝は清和天皇の血を引くサラブレット。東国の武士たちは、京の貴族たちへの反感と、頼朝の天皇の血筋に強いカリスマ性を感じ、集結した。
1182年 政子25歳 長男・万寿(頼家)誕生
頼家懐妊時、政子の安産祈願に義時の母方の祖父にあたる平家方豪族伊東祐親の恩赦を命じるも、祐親がこれを恥として自害。
政子が妊娠中に頼朝は亀の前という妾を寵愛する。
政子ブチギレで、牧宗親に命じて亀の前の住んでいた伏見広綱邸を破壊。広綱とばっちり。
頼朝ブチギレて牧宗親の髻(もとどり)を切り落とす。宗親とばっちり。
時政、宗親への仕打ちにブチギレで一族と伊豆へ引き上げるカオス。
政子まだブチギレで伏見広綱を遠江国へ流罪にする。広綱ほんとうにとばっちり。
嫉妬深い印象の政子だが、天皇の血筋の頼朝の正室としては出自が低いので、自分の立場を守るために徹底的にやったのではないかという説もある。
1183年 政子26歳。 長女大姫婚約
頼朝は対立していた源義仲と和睦。嫡子の義高(当時11歳)を自分の長女・大姫(当時6歳ぐらい)を婚約させた。実際は義高を鎌倉へ呼んで人質とするものだった。
大姫は幼いながらも義高を慕うようになった。
1184年 政子27歳 源義仲と義高の殺害
義仲は平家を破り、頼朝より早く入京するもいろいろ失敗して、頼朝の命を受けた源範頼、義経により討死。
頼朝は禍根を断つため義高も殺害。
大姫は心身を病んでしまう。
政子はブチギレで頼朝に迫り、義高を切り殺した郎党・藤内光澄をさらし首にした。頼朝の命令やったのにΣ( ゚Д゚)!!
1185年 政子28歳 壇ノ浦の戦いにて平家滅亡
範頼や義経が平家と戦っている間、政子は頼朝と供に東国の統治をすすめた。
平家滅亡後色々あって頼朝と対立し、おわれる立場になった源義経。1186年義経の愛妾の静御前が捉えられて鎌倉に送られる。
政子が静御前に意外と優しく、静御前は政子と大姫のために舞を南御堂におさめる。
静御前は義経の子を産むも男子だったため、頼朝により殺されている。この時政子はこの助命を願ったとされる。
政子は静御前を哀れみ、静御前が京へ帰るときは多くの重宝を与えた。
浮気相手には厳しいけど、身内認定した女性には優しいのかな?
1190年 政子33歳。 奥州藤原氏の滅亡
頼朝は奥州討伐のため出陣する。
頼朝、奥州藤原氏を滅ぼして凱旋。
1195年 政子38歳。 大姫を後鳥羽天皇へ入内させようと画策
頼朝と一緒に京へ来た政子。
義高を慕い結婚を拒み続ける大姫(当時18歳)も相手が天皇なら喜ぶだろうと後鳥羽天皇(15歳)への入内を協議。
しかし大姫は大病を患い、2年後に死去(享年20歳)。
政子は頼朝が「母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いから」と諫めるほど嘆き悲しんだ。
1197年 政子40歳。頼朝死去(享年53歳)
大姫に続く頼朝の死は政子を悲しませたが、頼家や実朝のために踏ん張った。
長子の頼家(18歳)が家督を継ぎ、政子は出家して尼になり、尼御台と呼ばれた。
1120年 政子43歳。13人の合議制の制定
若い頼家の独裁に御家人たちが反発。頼家の専制を抑制するために筆頭臣下たちによる十三人の合議制が定められた。
頼家は結構問題を起こす人で、家臣の妾を寝取ったり、いろいろやらかして嫌われていたとされています。(『吾妻鏡』など)
お父さんがカリスマ過ぎると息子はいろいろ求められて大変だったのではないだろうかと、筆者は勝手に考えています。
1203年 政子46歳。頼家が病気で危篤に
跡目争いで、頼家の外祖父・比企氏と北条氏が対立。
政子の名で起こした兵により頼家長男・一幡は死亡(享年6歳)、比企氏は滅亡。
頼家は回復するも、幕府の実権は北条氏に握られており、母・政子の命で出家させられ、翌年暗殺される。(享年23歳)
1205年 政子48歳。父・北条時政を追放
頼家に代わり将軍となったのは三男の実朝(12歳)。政子の父・時政が初代執権となる。
時政は政府の実権を握ろうとするも、政子は義時とともに阻止。時政を追放し、義時が執権となった。
後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れる。
1219年 政子61歳。三男・実朝暗殺(享年28歳)
出家し、鶴岡八幡宮別当となっていた頼家の次男・公暁により、鶴岡八幡宮参拝の帰りに実朝は暗殺される。公暁はすぐに義時により打ち取られる(享年20歳)。
政子は実朝の死を非常に悲しんだと『承久記』に記されている。
政子は次女も14歳でなくしており、4人の子どもに先立たれている。
三大悪女などと言われているが、結構つらい人生を送っている。
北条義時は摂関家から三寅(藤原頼経)を迎え、将軍とした。まだ二歳の三寅を後見した政子が将軍の代行をし、「尼将軍」と呼ばれるようになった。
1221年 政子63歳 承久の乱と御家人たちへの演説
皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府の対立は深まり、後鳥羽上皇が挙兵に踏み切る(承久の乱)。
武士たちの朝廷への畏れ(なんだかんだで逆らったら罰当たりになりそう的な感じ)は根深く、上皇挙兵のニュースは鎌倉の御家人たちを動揺させた。
政子は御家人たちを前に名演説をして、御家人たちの動揺を鎮めた。
1225年 政子死去 享年69歳
政子、病死。
余談ですが、鎌倉時代の平均寿命は24歳(赤ちゃんの死亡率が高いから)。
政子は長寿ですね。
本当に余談ですが、『御伽草子』に書かれている一寸法師のおばあさんは41歳だそうです。
41歳で普通におばあさん扱いはちょっと切ないですね。
政子が頼家を生んだのは33歳です。当時としては高齢出産だったんでしょうか?当時の人は子だくさんなので、普通だったのでしょうかね。