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年齢で見る歴史の人物 ~鎌倉編①~源頼朝

源頼朝

NHK『鎌倉殿の13人』でも話題の人物。

鎌倉幕府を開いて、武士の地位をぐっと高めた人。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/76/Minamoto_no_Yoritomo.jpg/250px-Minamoto_no_Yoritomo.jpg

ウィキペディアより引用


 

1147年 源義朝の三男として誕生。

    幼名は鬼武者、または鬼武丸。

    カッコいいですね!

    ちなみに源義経の幼名は牛若丸です。有名ですね。

    本当に余談ですが、筆者の好きな幼名は伊達政宗梵天丸です。

 

    長兄、次兄は母親の身分が低く、頼朝が一番血筋が良かったので、跡取り扱いで育っていたみたいです。

 

 

1156年 保元の乱。頼朝9歳。

    後白河天皇VS崇徳上皇の朝廷の内部抗争。

    武士の存在感が増していくきっかけになった出来事。

    父義朝が平清盛とともに後白河天皇方について戦勝する。

 

1159年 平治の乱。頼朝11歳。 

    後白河上皇VS二条天皇

    二条天皇方の平清盛が勝利。

    後白河上皇方の父義朝は敗走。

    ちなみにこの時、源義経は2歳。

 

1160年 伊豆へ流刑。頼朝14歳。

    父義朝は尾張まで逃げたところで鎌田政清とともに殺害された。源義朝享年38歳。

    頼朝は平清盛の母池禅尼の嘆願で除名され、伊豆へ流刑とされる。

    長兄の義平は都で処刑(享年20歳)、次兄の朝長は敗走中にケガで落命(享年17歳)、同母弟の源希義は土佐へ流刑。

 

1160年~1177年頃 頼朝14~30歳ごろ

    八重姫との間に千鶴丸を授かるが、八重姫の父伊東祐親により殺される。(平清盛ににらまれないため)

 

    北条時政長女・政子と結婚。(政子は20歳ぐらい?)

    

1180年 頼朝34歳。伊豆で挙兵。治承・寿永の乱(1180年~1185年)

    後白河法皇の王子である以仁王から「平家倒して」という令旨を受ける。以仁王は諸説あるが京都で平氏方に打たれ死去(享年29歳)。

    末弟・源義経が参戦。

    石橋山の戦いで惨敗するも富士川の戦いで勝利し、関東を制圧。頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれる。

 

1181年 頼朝35歳。 平清盛死去(享年64歳)

 

1182年 頼朝36歳。嫡男・万寿(頼家)誕生

    この前後で頼朝が亀の前という妾を寵愛。政子ブチギレで亀の前の住んでいた家を打ち壊します。

    側室、妾、当たり前の時代で政子が異常に嫉妬深いという説がありますが、天皇の血を引く頼朝の正妻としては出自が低い政子が地位を守るためにとった行動という説もあります。

 

1185年 頼朝39歳。壇ノ浦の戦いにて平家滅亡

    文治の勅許。諸国へ地頭の設置。

 

    壇ノ浦の戦いの約1か月前(1185年2月19日)、屋島の戦いがありました。那須与一が平家の扇を射た話が有名ですね。

 

    壇ノ浦の戦いでは、二位尼(祖母)と安徳天皇(孫)の入水が有名です。安徳天皇享年8歳。泣けます。

    「耳なし芳一」のお話にも壇ノ浦の戦いが出てきます。子どもの時に読んで震えあがりました。

 

1189年 頼朝43歳。義経、衣川の戦いにて死去(享年31歳)

 

1192年 頼朝46歳。征夷大将軍に任命 

    任命の数カ月前に後白河法皇崩御(享年66歳)

    次男・実朝誕生

 

1996年 頼朝50歳。建久七年の政変

    関白九条兼実が関白を罷免され失脚した事件。

    兼実は後白河法皇に実権を握られていたので、「これから俺の時代や!」と張り切り、作法とか罰とかを厳しくしすぎて下級貴族に嫌われていたそうです。

    作法などには詳しいけど政治工作は下手で、頼朝に支援を切られ失脚しました。

    

1998年 12月27日 頼朝落馬 ※諸説あり

 

    相模川の橋供養からの帰路で体調を崩す。

    あばれる君が出ていた番組では、糖尿病による発作が起こって落馬したのではないか、と推察されていました。

   

1199年 頼朝53歳 死去

    1月11日に出家。3日後に死去(享年53歳)